渡辺謙のトニー賞ノミネートとブロードウェイ・デビュー

4月28日に今年度のトニー賞候補者が発表され、今やハリウッド映画スターと呼ぶのがふさわしい渡辺 謙がミュージカル部門主演男優賞にノミネートされた。

このニュースに思わずガッツポーズをして喜んだのは、何を隠そうこのわたし。とりたてて渡辺 謙のファンでもないくせに、彼のブロードウェイデビューとこのノミネートがどれほどすごい意味を持つのかを承知しているせいか、無性に嬉しくなったのだ。

渡辺謙がブロードウェイの舞台に立つ、しかも作品はミュージカルだと最初に聞いた時、正直驚いた。彼が舞台役者として演技の道に入ったことは知っていたものの、歌と踊りができるというイメージはない。

だが、その作品が『王様と私』であること、共演がブロードウェイの大スター、ケリー・オハラであること、演出がバートレット・シャーで、リンカーンセンターのプロダクションであることを知り、思わず「やるな」とニヤリとする。

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Kelli O’Hara

というのも、1951年初演のロジャース&ハマースタインのミュージカル『王様と私』は、19世紀の半ば、息子と共にウェールズからはるばるシャムに渡り、シャム王国の王子・王女の教育係となった未亡人アンナの物語。主役はアンナで、作品中、誰もが耳にしたことがある名曲を歌うのはこの役を演じるブロードウェイの歌姫ケリー・オハラの担当。そのビロードのようになめらかな歌声で観客を魅了することは、幕が開く前から約束されている。

渡辺が演じるのは、初演ではユル・ブリンナーが演じ、トニー賞を受賞したシャム王役だ。ソロで歌う曲は1曲のみ。踊りも名曲「Shall We Dance?」に合わせて舞台上をくるくると跳ね回るポルカを踊るだけ。ベル・カント唱法を習得していなくても、バレエやタップダンスの素地がなくても演じられる、歌と踊りが売りでない役者に親切な役どころだ。

しかも、演出は、2008年にオハラを主演に据え、同じくロジャース&ハマースタインの『南太平洋』を同じ劇場、同じリンカーンセンターのプロデュースで大成功させたバートレット・シャー。こう言っちゃなんだが、渡辺はケンタッキー・ダービーで連戦連勝の本命馬に賭けたようなものだからだ。

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Ken Watanabe

と書くと、「なんだ、簡単な役なのか」と誤解を招くかもしれない。だが、ブロードウェイでこの役を演じるのは、決して簡単なことではない。それと言うのも、この役にはユル・ブリンナーのイメージがべったりと張り付いているからだ。

ブリンナーは、ウォルター・ラングが監督した1956年の映画版でもこの役を演じ、デボラ・カーと共演してアカデミー賞主演男優賞も受賞、その後、舞台のリバイバルやツアー公演を含め、30年以上にわたって生涯演じた。森光子が生涯演じた『放浪記』の林芙美子役のようなもので、でんぐり返りと言えば森光子を連想するように、シャム王と言えばブリンナーの凛々しい禿頭がぴかりと脳裏に浮かんでくる。

言いかえれば、この役に要求されるのは、シャム王としての威厳と風格をもって舞台上に君臨し、観客の脳内にあるシャム王=ブリンナーのイメージを上書きするほどの輝きを舞台上で放つこと。マンガチックに描かれがちなシャム王の内面と苦悩をどのように演じて知性を滲み出させるかが、この作品に知性や品性、深みをもたらすポイントでもある。

渡辺はそれに挑戦したのである。

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米倉凉子 in Chicago

「でも、米倉涼子だって3年前にブロードウェイデビューして『シカゴ』のロキシー役に挑戦したぞ」

そういう声もでてくるかもしれない。だが、渡辺のブロードウェイデビューが持つ意味は、米倉のデビューが持つ意味よりもはるかに大きいのである。

3年前の2012年7月。ブロードウェイのスターたちが夏休みに入り、アンダースタディ (補欠俳優)達が活躍し始める頃、米倉涼子がブロードウェイの『シカゴ』でロキシーを演じてブロードウェイデビューした。

NHKの朝の連続テレビ小説「マッサン」で日本のお茶の間の人気者になったシャーロット・ケイト・フォックスも、米倉同様、この秋ブロードウェイの『シカゴ』でロキシーを演じてブロードウェイデビューする。

ご存知の通り、現在ブロードウェイで上演中の『シカゴ』は、1996年にリバイバル公演が始まって以来ロングランを続けている長寿作品だ。ツアー公演もあり、アメリカ国内はもちろん、世界各地で上演され続けている。

毎年話題の新作が登場する競争の激しいブロードウェイでロングラン作品が生き残るため、『シカゴ』の敏腕プロデューサー、バリー・ワイズラーがとった作戦は、有名人をカンフル剤として注入するというもの。

ブルック・シールズ、メラニー・グリフィス、アシュリー・シンプソン、アッシャー、故パトリック・スウェイジ等々、ハリウッドの有名人や音楽業界の有名人を数週間から数ヶ月の期間限定で『シカゴ』の舞台に立たせて話題を作っては、観客を呼び込んできた。

その甲斐あってか、『シカゴ』はブロードウェイで上演中の作品の中、『オペラ座の怪人』に次いで2番目に長い上演歴を持つ作品となった。

また、ワイズラーは、海外ツアー公演の客入りを担保するために、ツアー先で『シカゴ』の舞台に立つ予定の現地の役者を短期間訓練し、期間限定でブロードウェイの舞台に立たせて箔をつけ、そののち本国で「凱旋公演」させるという手法も採った。

往往にして、それはその役者の「本場ブロードウェイでデビュー」となり、役者の出身国では大きな話題となる。米倉とフォックスは、まさにその「箔つけ凱旋宣伝枠」でのブロードウェイデビューだ。

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シャーロット・ケイト・フォックス in Chicago, Photo by 石黒淳二

この公演はピンポイントで本国の観客を狙ったものなので、役者の力量やスケジュールにもよるが公演期間も短い。

米倉の場合は異様に短く1週間。しかも、通常は昼2回夜6回の週8回がブロードウェイの1週間公演の基本のところ、それに満たない夜6回のみの出演だった。フォックスの場合も2週間限定。その後どちらも日本でのツアー公演の主役として東京の舞台に立つ。

だが、今回の渡辺のブロードウェイデビューは、いわばお客様として迎えられる「箔つけ凱旋宣伝枠」での出演とは全く異なるものだ。

『王様と私』というクラッシック作品を、新しい演出家、新しいキャスト、新しいクルーによって、一から作り上げる新プロダクションへの出演。

そのオリジナルキャストとして役を作り上げるというのは、舞台役者としてはもっともやり甲斐のある大仕事である。それに挑戦した渡辺が、トニー賞主演男優賞のノミネートという形で評価された。

そして、プレビュー開始直後から満員の客を動員し、今、ブロードウェイでもっともチケットの取りにくいミュージカルとして大成功の一端を担ったのである。

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Kelli O’Hara, Ken Watanabe and company

スターとしての地位が確立している日本を離れ、慣習も違えば仕事のやり方も違うハリウッドで、母語ではない英語を使っての演技にチャレンジしてきた渡辺が、今度はブロードウェイで初めてのミュージカルに挑む。

その彼の姿は、西洋列強が攻め寄るなか、西洋文化を学んで理解を深め、シャム王国を守ろうとするシャム王の姿とオーバーラップする。

この役に渡辺を起用した演出のシャーは、2007年のクリント・イーストウッド映画『硫黄島からの手紙』を見たときから、渡辺をキャスティングしたいと思ったらしい。

「あの男は王だ」

そう思ったそうだ。

果たして、6月7日に発表されるトニー賞授賞式で、渡辺が主演男優賞の王として冠をいただくことができるのか、発表が楽しみである。

ミュージカル部門主演男優賞に渡辺と一緒にノミネートされているのは以下の4名

– Fun Homeのマイケル・サーベリス
– An American in Parisのロバート・フェアチャイルド
– Something Rottenのブライアン・ダーシー・ジェイムズ
– On the Townのトニー・ヤズベク

*ノミネート常連のマイケル・サーベリスとブライアン・ダーシー・ジェイムズを除き、皆初ノミネート

The King and I Production Photos by Paul Kolnik

『The King and I』 TVコマーシャル
米倉涼子の『シカゴ』ブロードウェイデビュー
シャーロット・ケイト・フォックスの『シカゴ』メドレー