マシュー・バーニーをご存知か?
現代美術に詳しい人なら「ああ、あの人ね」とすぐにわかるのだろうが、私は現代美術にかなり疎い。世界中で人気の村上隆の作品を見ても、その価値がいまひとつ理解できず、「これに大枚をはたく人がいるのか!」と驚くくらいなので、当然ながらバーニーについてもほとんど何も知らない。
なので少し調べてみた。
アメリカの現代美術家マシュー・バーニーは、イェール大学でフットボール選手として活動しながら、医学部進学を目指していたが、美術にも関心があったらしく、在学中から美術作品を制作していたという。
医学、フットボール、そして美術。
一見すると妙な組み合わせだが、バーニーの作品を見ていると、身体や運動に対する関心がその後の制作に深く関わっていることがわかる。
どうやらバーニーは、身体に抵抗や制約を与えることで、そこから新しい形が生まれるという考え方を、作品の中で追求しているらしい。
つまり、私のかなり大雑把な理解では、芸術作品にも筋トレをさせてみよう、ということである。
そんなバーニーが1980年代後半から制作してきた作品シリーズが「Drawing Restraint」。今回の『拘束のドローイング9』は、そのシリーズの新作の映像作品だ。
日本ではすでに金沢21世紀美術館でバーニーの展覧会が開催され、この作品も上映されている。また、東京でも一部の映画館で公開されていたらしい。
現代美術に詳しくない私にとっては、こういう予備知識が全くないまま、この映画のNYプレミアとなった会場の椅子に座ることになった。
そして、これがなかなか大変な映画だった。
まず、映画にはセリフがほとんどない。
日本船籍らしき船の中で、不思議な外国人の男女が何かをしている。男女を演じるのはマシュー・バーニー本人と、実生活でもパートナーであるアイスランドの歌姫ビョーク。二人は毛皮でできた婚礼衣装に着替え、船内の茶室へ向かう。
何が起こっているのか、さっぱりわからない。
しかし、わからないのに(わからないから?)目が離せない。
画面に映し出されるものがあまりにも奇妙なので、「これはいったい何なんだろう」と考えているうちに時間が過ぎていく。
そして1時間ほど経ったところで、「お? ひょっとして、これ捕鯨船?」と、ようやく少しだけ状況がわかってきた。
ところが、こちらが安心したのも束の間、今度は不思議な儀式が始まる。
二人が向かった船内の茶室は、当然と言えば当然だが、普通の茶室ではない。柱にはフジツボがびっしりと付着し、茶道具も貝殻でできている。茶せんまでトゲトゲした貝殻だ。海の中にある竜宮城に茶室があるとしたら、きっとこんな感じで、きっとこんな茶道具を使うのだろう。流派はおそらく海千家である。
甲板では、バーニーの作品にたびたび登場する「フィールド・エンブレム」と呼ばれる形の、まるで小判の上に箸袋を置いて上から俯瞰で見たような形の型があり、その中にどろりとしたワセリン状のものが流し込まれ、それがゆっくりと固まっていく。
海からは竜涎香も拾われる。香水の原料にもなるものらしいが、私にはどうしても「クジラのゲロ」という印象のほうが強い。
こうして、捕鯨船、茶室、毛皮の婚礼衣装、貝殻、ワセリン、竜涎香などがスクリーンに次々に登場する。普通の映画なら、これらが何を意味するのか、なんらかの説明が登場する頃合いだ。
しかし、この映画にはそういう親切さ(あるいは余計なお節介)がない。
何が起こっているのかをわけ知り顔で説明する人もいなければ、観客が「ははん!」と膝を叩きたくなる映像も出てこない。
ただひたすら、バーニーの作り出した世界が目の前に延々と展開されていく。
そして、気がつけば135分。
映画を観終わったというよりも、135分かけてバーニーの頭の中を覗き込んできたような、なんとも不思議な疲労感が残る。
現代アートに詳しい人なら、映像の一つ一つに込められた意味や、バーニーのこれまでの作品とのつながりをもっと楽しめるのかもしれない。だが残念なことに、そうでない私は、最初から最後まで「これはいったい何なんだろう」と考えながら観ることになった。
とはいえ、その「何だかわからない」という状態そのものが、この映画の面白さともいえる。ストーリーを追いかけるというより、奇妙な映像を次々に見せられながら、その世界に取り込まれていってどっぷりと浸かる感覚。映画というより、巨大なインスタレーションの中に135分閉じ込められていた、というほうが近い。
映画が終わって不思議な疲労感と消耗感に襲われながら会場を出ると、ありがたいことに上映後のレセプションが催されていた。
2時間以上にわたって現代アートの世界(=バーニーの頭の中)をさまよった後のスパークリングワインは、現実世界に戻るための気付け薬。ぐいっと1杯飲み干してようやく現実に戻れた気になってきた。
ふと見回すと、そこにはバーニーとビョークの姿もある。
映画の中の二人は、現実とはかけ離れた不思議な世界の住人に見えたが、上映後に二人を見ると、さっきまでスクリーンの中で繰り広げられていた不思議バーニーワールドが、急に現実のニューヨークにつながったような感じがした。
「いや待てよ? もう映画は終わってるよな?」
ついそう確認したくなる、なんとも現代アートな135分。現実世界にしっかり戻るためには、スパークリングワインがもう1、2杯必要だ。
Top Image ©︎ Matthew Barney
『Drawing Restraint 9
『拘束のドローイング9』
監督:マシュー・バーニー
製作:マイク・ベロン、バーバラ・グラッドストーン
脚本:マシュー・バーニー
出演:マシュー・バーニー、ビョーク
音楽:ビョーク
撮影:ピーター・ストリートマン
編集:ルイス・アルバレス・イ・アルバレス、マシュー・バーニー、クリストファー・セギーヌ、ピーター・ストリートマン
US公開日:2006年3月24日
日本公開日:2005年7月1日

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